記事の内容をざっくり言うと…
映画『クイズ・ショウ』とは
映画『クイズ・ショウ』(1994・アメリカ)は、アメリカで実際にあった超人気クイズ番組「21(トゥエンティーワン)」の八百長スキャンダルを扱った作品だ。
まだ放送に関する倫理が確立していなかった時代。スポンサーとテレビ局の行き過ぎた行為と、彼らに翻弄された一般人が描かれる。
スキャンダルは現代にも通じる部分があり面白いが、私にはストーリーの背景に描かれたユダヤ人とアメリカ社会が興味深かった。
1950年代頃のアメリカ社会におけるユダヤ人の立ち位置なんて、私は全然知らなかったし、多くの日本人にとってもピンとこないと思う。
本作には、それを知るヒントがそこかしこに散りばめられている。
しかも、ユダヤ人が自分たちを差別するアメリカ社会を成敗する、なんていう単純な構図でもないところが面白い。
映画『クイズ・ショウ』のあらすじ・内容
舞台は1950年代、テレビ黎明期のアメリカ。勝てば夢のような高額賞金が手に入る超人気クイズ番組。
連勝中のチャンピオンはユダヤ人のハーバート・ステンペル(ハービー)だったが、「あいつはイケてないから降ろせ」というスポンサーの意向を受けて、テレビ局はチャンピオン交代の八百長を企てる。
新チャンピオンとして白羽の矢が立ったのが、誰もがうらやむ華麗なる一族に生まれた美青年のチャールズ・ヴァン・ドーレン(チャーリー)だ。
二人は生放送で直接対決し、どちらもテレビ局に指示された通りに回答して、新旧チャンピオンが交代した。
このクイズ番組について、立法管理小委員会の調査官リチャード・グッドウィン(ディック)が何やら怪しいとかぎつけ、真相究明に乗り出す。
映画『クイズ・ショウ』から見えるユダヤ人とアメリカ社会
ストーリーはディックの調査を軸に進んでいく。
ディックは、ユダヤ人でありながらハーバード大に入学して主席で卒業した、非常に頭の切れる人物だ。
…とサラッと書いたが、私はそもそもこの時代にユダヤ人は名門大に入るのが大変だったいうことを知らなくて、驚いた。
同じユダヤ人のハービーにとっても彼の経歴は驚きだった。
当時のアメリカ社会で、ユダヤ人がどのような扱いを受けていたのか。それが垣間見えるシーンはたくさんある。
八百長に納得していないハービーは、歴代チャンピオンに関するこんな情報をディックに訴える。
「俺が調べたとこじゃ、いつもユダヤ人のあとにキリスト教徒が出てきて、賞金額も多いんだ。偶然で片づくか?」
引用元:映画『クイズ・ショウ』
また、新チャンピオンのチャーリーに接触したディックは、チャーリーに高級レストランでのランチに誘われる。いかにもセレブたちが集う店で、ディックはこんなジョークを言う。
「このクラブにはユダヤ人のサンドイッチはあるが、ユダヤ人はいませんね」
引用元:映画『クイズ・ショウ』
当時は、ユダヤ人にとって成功するチャンスが平等与えられていたとは言えない社会だったことが伺える。
調査官ディックと疑惑の人チャーリーの関係
しかし、ディックは同じユダヤ人のハービーに肩入れするのかと思いきや、なんとキリスト教徒で名家の息子であるチャーリーと親しくなっていく。
調査対象のチャーリーに接触したディックは、郊外にあるチャーリーの実家に招かれ、父親の誕生会に招かれる。
彼の父親は過去にピューリッツァー賞を受賞した詩人で、母親や他の一族もインテリ揃いだ。
ランチでの会話の流れで、チャーリーと父親が「我が家でよくやるゲーム」として文学クイズを始める。
シェイクスピアの作品の一節を暗唱して、作品タイトルを当てるという、なんとも知的なお遊び。
子供の練習するドラムがジャカジャカ騒がしいハービーの家とは大違い…。
セレブな一族。チャーリー自身も、インテリで品があって爽やかな好青年だ。
上昇志向の強いディックにとっては、チャーリーもその一族も憧れの対象だったのだろうか。
実家のランチに招かれた後、チャーリー一族をすっかり信頼している旨のセリフがあった。
チャーリーの友人グループに混じって、一緒にポーカーもやった。
うだつの上がらないハービーには、お前らはどうせアイビーリーグのお仲間同士だ、となじられた。
ディックとチャーリーの間には友情が芽生えていた。
だが、2人の関係は「調査官」と「疑惑の人物」だ。
ディックは調査の末にテレビ局が八百長を企てた決定的な証拠を掴み、スキャンダルが公になる。
ディックの最終目的は、あくまでテレビ局とスポンサーの倫理をただすことだ。
チャーリーやハービーをこらしめるためでも、ユダヤ人としてキリスト教徒やアメリカ社会に一矢報いるためでもない。その軸はずっとブレなかった。
しかし、疑惑の当事者であり、友人でもあるチャーリーに何をするべきかについては、葛藤する。
そして、八百長にのったチャーリー自身も、良心の呵責に苦しむ。
ディック、そしてチャーリーが出した結論とは?テレビ局とスポンサーの腐敗に勝利できるのか?
エンドクレジットが暗示することは?
テレビの人気番組のヤラセ問題は、現代もしばしばニュースを賑わす。
本作を観て、「やっぱり今も昔もテレビ局は腐ってる」とまとめるのは簡単だ。
たしかにスポンサー重視、視聴率重視という点は、作品中で描かれるテレビ黎明期も、現代も、本質的には変わらないのかもしれない。
しかし私は、本作がテレビの倫理を問いただすと同時に、私たち視聴者側のあやうさも暗示しているように感じられた。
本作のエンドクレジットは、テレビ番組の公開収録を観覧する大衆の楽しそうな顔、顔、顔がスローで延々と映し出される。
最初はぼーっと観ていたのに、顔のしつこさが気になり、ハッとした。
それまで作品の世界を外側から傍観していたのに、エンドクレジットではまるで鏡を向けられているような気分になったのだ。
「で、あんたは関係ないわけ?」と。
つまり、八百長スキャンダルと、視聴者である大衆とは、まったくの無関係ではないということ。
一人ひとりに具体的に思い当たる責任はなくとも、大衆の欲望と地続きの世界で起きたスキャンダルではないか。
作品中では徹底して、テレビ局とスポンサーが腐り切った悪者として描かれる。
その悪者は、誰の顔色を見ながら不正を行ったのか。
エンドクレジットが
「ご紹介しましょう!こちらがテレビの嘘を鵜呑みにして、番組に熱狂して、せっせとスポンサーの製品を買った、愚かなみなさんです!」
と言っているような気がした。
今回は映画『クイズ・ショウ』(1994年)をレビューします!